とりあえず、海へ向かった。

函館の大森海岸は、秋の光を受けていっそう青く澄み、波間には冷たい風が白い筋を描いていた。 

海沿いの遊歩道には、落ち葉が風に押されてカサリと転がっていく。

僕は、青いダウンジャケットの襟をそっと立てた。

胸の奥に、言葉にできないざわめきがあった。

彼女に伝えたいことがあるのに、まだ形にならないまま揺れている。


近くの喫茶店に入り、窓際の席に腰を下ろす。

ガラス越しに見える海は、夕方が近づくにつれて群青色を深めていく。

温かいコーヒーをひと口飲むと、指先に戻ってくる熱が心まで染みて、ようやく呼吸が整った。

「さて…」 

小さくつぶやき、僕はもう一度大森海岸へ戻り、彼女へ電話をかけた。

声を聞きたいという気持ちが、秋の風よりも強く胸を押した。


その頃、彼女は帰宅してすぐに、留守番電話のランプが点滅していることに気づいた。

部屋の窓の外では、秋の夜気が街灯の光を揺らしている。 

再生ボタンを押すと、メッセージは波の音から始まった。

その柔らかな潮騒で、彼女はすぐに彼からだと分かった。

胸の奥が、ふっと温かくなる。

彼が今、どんな気持ちでこの音を残したのかを想像すると、少しだけ切なくなった。


今夜、留守番電話から聞こえてきた波の音。

それは、昨年ふたりで訪れた函館の海で聞いた、あの「潮騒のメロディー」だった。

秋の終わり、赤レンガ倉庫の灯りが海に揺れていた夜の記憶が、ふっと胸に戻ってくる。

彼は、波の音をいつもそう呼んでいた。 

その呼び方が好きだった。

彼女は、彼の声の奥にある優しさを思い出し、胸がきゅっと締めつけられた。


今日、彼はひとりで函館へ来ている。

出張という名の旅だ。

けれど、彼女は知っている。

彼にとって函館は、ただの仕事先ではなく、ふたりの記憶が静かに息づく場所だということを。

彼女はその夜、何度も「潮騒のメロディー」を聞き返し、そして彼に電話をかけた。

窓の外では、秋の風が街路樹を揺らし、遠くで海の匂いがかすかに漂っていた。

彼の声を聞きたい気持ちが、季節の冷たさよりも深く胸に広がっていく。


あとがき…

秋の函館には、静けさの中にどこか温かい気配が漂っています。

海の色も、風の匂いも、街灯の揺らぎさえも、季節が深まるほどに柔らかく、そして少し切なく感じられます。

この物語を書きながら、ふたりの心の距離と、秋の海の静かな呼吸が重なっていくような感覚がありました。

言葉にできない想いを、潮騒の音に託すように。

離れていても、同じ海の音を聞けば、どこかでつながっていられるように。

函館という街は、記憶をそっと包み込んでくれる場所です。

この物語が、読んでくださった方の心にも、静かな波のように残ってくれたなら嬉しく思います。