ホテルのバーで、彼女がぽつりとつぶやいた。 

「雪が見たい…」

その声は、グラスの氷が溶ける音よりも静かで、どこか遠くを見つめていた。

昨年、女友達と訪れた冬の函館――

白い息が夜空にほどけ、街灯の光が雪に反射して揺れていたあの景色が、今も胸の奥で淡く光っているのだろう。


窓の外には、秋の函館の夜が広がっていた。

冷たい風が海の方から吹き込み、街路樹の葉をさらりと揺らす。

雪はまだ降らない季節なのに、彼女の瞳には、すでに冬の気配が映っているように見えた。


カウンター越しに、僕たちの会話を黙って聞いていたマスターが、 「どうぞ」と静かに置いた2つのグラスは――

縁に白い雪をまとったような、スノースタイルのソルティードックだった。


塩の結晶が、バーの柔らかな灯りを受けて小さくきらめく。

その光は、まるで彼女が思い出している冬の函館の街―― 

八幡坂の上から見下ろした海の青、赤レンガ倉庫に積もった薄雪、 そして、静かに降り続ける粉雪の白さ――

そんな景色の断片を、そっと呼び起こすようだった。


彼女はグラスを手に取り、縁の白い輝きをじっと見つめた。

「雪みたい…」

その言葉には、懐かしさと、少しの切なさが混じっていた。

僕は、その横顔を見つめながら思った。

彼女が恋しがっているのは、雪そのものだけではなく、 あの冬の函館で感じた、胸の奥が静かに温まるような時間なのだと。


あとがき…

秋の函館には、季節の境目にしかない静かな気配があります。

海から吹く風は冷たく、街路樹の葉は色づきながら散り、 夜の灯りはどこか冬の訪れを予感させます。

この物語を書きながら、 「まだ降らない雪を想う気持ち」 という、季節の狭間にだけ生まれる切なさを大切にしたいと思いました。

彼女が恋しがったのは、雪そのものだけではなく、 その雪の中で感じた時間、景色、匂い、そして心の温度。

秋のバーで手にしたスノースタイルのグラスは、 そんな記憶の扉をそっと開く小さな灯りのように思えます。

函館という街は、季節の移ろいとともに、 人の心の奥にある「忘れられない景色」を静かに呼び起こしてくれます。 

この物語が、読んでくださった方の胸にも、 ひとつの小さな光景として残ってくれたなら嬉しく思います。