函館ストーリー〈春〉
今年の春は早く、桜はゴールデンウィークを待たずに咲いた。  
ある晴れた日、彼女は冬物のコートを風に干しながら、丁寧にブラッシングをかける。  
お気に入りのカシミアのコートだ。

とりわけ気に入っているのは、第二ボタン。  
他のボタンよりひと回り大きく、マーブル模様が浮かぶそのボタン。
彼のバーバリーのコートについていたものだった。
付き合い始めた日、二人は互いのコートの第二ボタンをそっと交換した。  
それは、言葉よりも確かな約束のようだった。

彼女はそのボタンにそっとキスをして、部屋を出る。  
待ち合わせの函館公園では、彼がひと足早く桜の木の下に立っていた。  
春のため息のような優しい風が、花びらを静かに揺らしている。
その風は、彼女の髪にも、胸の奥にも、そっと触れていた。
春は、過ぎてゆくものの中に、確かな記憶を残していく。
ふたりのコートに宿る小さな約束は、今年も桜の風に揺れている。