函館ストーリー〈春〉

元町カトリック教会の風見鶏は、北北西を向いたまま、じっと動かずにいた。  
まどろみの午後。かすかな春風が南西へと流れ、僕の耳元でそっとささやく。  
「彼女が、元町茶寮で待っているよ」  
僕は、大三坂をひと足ずつ踏みしめながら上り、春風に小さくお礼を言った。

坂の途中、石畳の隙間から顔を出すタンポポに目を留める。  
黄色い花が、まるで「急がなくていいよ」と言っているようだった。  
元町茶寮の前に着くと、硝子戸越しに彼女の横顔が見えた。  
湯気の立つ抹茶ラテを前に、彼女は窓の外を眺めている。  
僕はそっと戸を開け、春の音を連れて中へ入った。

「来てくれて、ありがとう」  
彼女の声は、春風よりもやわらかかった。  
僕は席につき、言葉より先に、目で微笑みを返す。  
窓の外では、教会の風見鶏が、まだ北北西を向いたままだった。

あとがき…
春の函館には、風の声があるような気がします。
この物語は、そんな風に導かれて始まりました。
元町の坂道、教会の風見鶏、元間茶寮の硝子戸――
どれも、変わらないものの中にある、ほんの少しの揺らぎを描きたかったのです。
読んでくださったあなたの心にも、春風がそっと触れてくれたなら、嬉しく思います